聞こえないということ?

前回のコラムからだいぶたってしまいました。
幼少時に失聴した人は、聞こえる皆さんが「耳」から覚えた言葉をどのようにして習得するのでしょうか。
断っておきますが、私は、聴覚障害者の教育専門家ではありません。あくまでも実感としてのものです。

聞こえるみなさんは、「あ」という文字を見て、「発音してごらん」というと、簡単に「a」という発声をするでしょう。
これは、「あ」というひらがなを見ると、親が「これは a と読むのだよ」と言ってくれるから、覚えるわけですよね。

こうした発声を組み合わせて、色々な言葉を覚えていくのでしょう。

ところが、生まれつき聞こえない、または、幼少時に聞こえなくなった人は、いくらこれは「a」と読むんだよといわれても、そこに見えるのは、口をパクパクあけているだけのお父さんかお母さんです。

最近の超早期発見では、すぐ、補聴器をつけるなどしての訓練が進んでいると伺っています。でも、補聴器をつけても全く聞こえないか、聞こえにくい人も多くいるわけで、こうした人には、補聴器をつけての、聴覚による言語習得は、かなり制限されると思います。

こうした子供に対しては、最初から、手話でコミュニケーションをとっていくという試みがなされ、欧米でその有効性が認められ、日本でも、一部のところで実施しているようです。

補聴器をつけるなどしても「聴覚」からの言語習得が無理な子供に対しては、「視覚」から言語を習得させようということです。

私自身は、とても有効な方法と思っていますが、まだまだ日本では環境が整っていない状況です。

「視覚」から言語を習得する方法についての有効性についてはここでの主目的ではないのではぶきますが、現在は、「聴覚」によって言語習得が難しい子供への有効な言語習得訓練は十分になされていない状況でしょう。

こうした、言語を十分に習得できていない聴覚障害者が、それでも、ろう学校を卒業すると、いやでも、社会に放り出されます。

書けばいいじゃないかという認識は問題外として、手話通訳をつければ通じるのではないかという誤解も、非常に多くあります。

言語を十分習得しないまま社会に出ている聴覚障害者も、一応手話は「見える」ので伝達手段として使っていますが、基本的に、言語を習得しきれていないため、社会対応もできにくい状況にあります。

よく、聴覚障害者の言語は手話であるといいます。もちろんそれは間違いではないのですが、手話を使っている聴覚障害者すべてが、言語としての手話を使いこなせているわけではないようです。